慰謝料請求権は生前に相続の意思表明をしなくても相続の対象となる
論旨は要するに、原判決が慰謝料請求権は一身専属権であり、被害者の請求の意思の表明があったときはじめて相続の対象となると解したのは、 公平の観念および条理に反し、慰謝料請求権の相続に関する法理を誤ったものであるというにある。案ずるに、ある者が他人の故意過失によって 財産以外の損害を被った場合には、その者は、財産上の損害を被った場合と同様、損害の発生と同時にその賠償を請求する権利すなわち 慰謝料請求権を取得し、右請求権を放棄したものと解しうる特別の事情がないかぎり、これを行使することができ、その損害の賠償を 請求する意思を表明するなど格別の行為をすることを必要とするものではない。そして、当該被害者が死亡したときは、その相続人は当然 に慰謝料請求権を相続するものと解するのが相当である。けだし、損害賠償請求権発生の時点について、民法は、その損害が財産上のものであるか 財産以外のものであるかによって、別異の取り扱いをしていないし、慰謝料請求権が発生する場合における被害法益は当該被害者の一身に専属するものであるけれども、 これを侵害したことによって生ずる慰謝料請求権そのものは、財産上の損害賠償請求権と同様、単純な金銭債権であり、相続の対象となりえないものと 解すべき法的根拠はなく、民法711条によれば、生命を害された被害者と一定の身分関係にある者は、被害者の取得する慰謝料請求権とは別に 固有の慰謝料請求権を取得しうるが、この両者の請求権は、被害法益を異にし、併存しうるものであり、かつ、被害者の相続人は、必ずしも、 同条の規定により慰謝料請求権を取得しうるものとは限らないのであるから、同条があるからといって慰謝料請求権が相続の対象となりえないものと 解すべきではないからである。しからば、右と異なった見解に立ち、慰謝料請求権は、被害者がこれを行使する意思を表明し、 またはこれを表明したものと同視すべき状況にあったとき、はじめて相続の対象となるとした原判決は、慰謝料請求権の性質およびその相続に関する 民法の規定の解釈を誤ったものというべきで、この違法が原判決の結論に影響を及ぼすことは明らかであるから、論旨は理由があり、原判決は 破棄を免れない。そして、本訴請求の当否について、さらに審理をなさしめるため、本件を原審に差戻すことを相当とする。
『裁判官奥野健一の補足意見』
民法710条は『他人ノ身体、自由又ハ名誉ヲ害シタル場合ト財産権ヲ害シタル場合トヲ問ハス前条ノ規定ニ依リテ損害賠償ノ責ニ任スル者ハ 財産以外ノ損害ニ対シテモ其賠償ヲ為スコトヲ要ス』と規定し、身体、自由等の非財産的権利を財産権と全く同列に置き、共に不法行為の対象となる 法益とし、かつその損害に対しては、財産権侵害の場合と同様、原則として金銭賠償により、これを救済せんとするのである。 従って、非財産権が侵害された場合は、財産権が侵害された場合と同様、その侵害と同時に、損害賠償請求権が発生するものと解すべきであり、 非財産権の侵害の場合に限って、被害者がこれを請求する意思を表示した場合に、始めて賠償請求権が発生するものと解すべき法文上の根拠は毫もない。 また、生命を侵害された場合に、被害者の得べかりし財産上の利益の喪失による損害については、被害者がこれを請求する意思を表示したと否とにかかわらず、 当然相続人において被害者の財産上の損害賠償請求権を相続したものとして請求し得るのと同様に、非財産権の侵害による慰謝料請求権も、被害者が これを請求する旨の意思を表示したか否かにかかわらず、当然金銭債権として、相続人がこれを相続したものと解するのが当然である。 もし、非財産権侵害による慰謝料請求権は、被害者がこれを請求する意思を表示して始めて発生するものとすれば、民法724条により慰謝料請求権が、 未だ発生しないのに消滅時効が進行するという不合理な結果を生ずることになる。また、被害者が慰謝料請求の意思を表示した場合に限り、 慰謝料請求権の相続性が認められるとするならば、被害者即死の場合や、慰謝料請求の意思を表示することができないほどの重傷を蒙った場合などは、 常に慰謝料請求権は否定されることになり、かかる重大加害者は常に慰謝料支払いの義務を不当に免れる結果となる。更に航空機や船舶の遭難により 全員が死亡したような場合には、慰謝料請求の意思表示をした事実の立証は不可能であるから、かかる場合、概ね慰謝料請求権は否定されることになり、 甚だ不当な結果となる。もし、慰謝料請求権の本質が「被害者その人の精神的苦痛を慰謝すること」を目的とするものであるから、被害者の一身に専属する権利であって、 譲渡性、相続性なしというのであれば、仮令被害者がこれを請求する意思を表示したからといって、遂に慰謝料が被害者その人の精神的苦痛を慰謝するという性質を変じ、 譲渡性、相続性が生ずるいわれはないものと考えられる。大審院が、明治43年10月3日の判決においては、被害者が加害者に対して慰謝料を請求する意思を 表示したときは、相続の対象となるものと解し、大正8年6月5日の判決では、被害者が慰謝料を請求する意思を書面に表示し、これを執達吏に 交付しその催告を委任したが、その催告書が加害者に到達する以前に死亡した場合でも、被害者は慰謝料請求の意思を表示したことになるから、その慰謝料請求権は 相続の対象となるとしたのであるが、昭和2年5月30日の判決では被害者が「残念残念」と連呼しながら死亡した場合には、特別の事情のない限り、 加害者に対して慰謝料請求の意思表示をしたものと解することができるというに至り、被害者の請求の意思表示の要件を次第に緩和せんとする傾向にあったものと認められる。 慰謝料請求権の相続性につき被害者の請求の意思表示を必要とするとの大審院判例は、今や変更せられるべき時期に来ているものと思慮せられる。 要するに、わが民法の建前によれば、いやしくも、非財産権の侵害があれば、財産権侵害の場合と同様、特別の事情のない限り、当然に損害が発生し、従って被害者は慰謝料請求権を 取得し、これを放棄したと認められるような特段の事情のないかぎり、相続人に相続せられるものと解すべきであって、ドイツ民法847条等と その立法の建前を異にするものであり、これをわが民法の解釈の資料とすることはできない。また、近代不法行為法の理想に従えば、いやしくも不法行為により 他人に損害を生ぜしめた以上、その損害が財産的、非財産的であるを問わず、出来るだけ広くこれを賠償させるのが、被害者保護の理想にかなうものであり、 たまたま被害者が死亡したからといって、加害者をして、その責任を免れしめる理由がなく、被害者の相続人に対し、賠償を得させることが前記 理想に副う所以である。
裁判官田中二郎の反対意見
私は、慰謝料請求権の性質に関する多数意見の見解には賛成しがたく、結論的にも多数意見とは反対に、本件上告は棄却すべきものと考える。その理由は、 次のとおりである。
一、 多数意見は、慰謝料請求権が発生する場合における被害法益は当該被害者の一身に専属するけれども、これを侵害されたことによって生ずる 慰謝料請求権そのものは、単純な金銭債権であるという。しかし、私は、そうは考えない。そもそも、精神的損害といわれるものは、客観的にではなく、 被害者の受ける苦痛その他の精神的・感情的状況の如何によって決まる主観的・個性的なものであり、したがって、これらの精神的損害が生じたとして、 これに対して認められる慰謝料請求権も、単純な金銭債権とみるべきものではなく、被害者の主観によって支配される多分に精神的な要素をあわせもったものと 解すべきであろう。かような意味において、多数意見のいうように、単に被害法益が一身専属的なものであるだけでなく、慰謝料請求権も、被害者の現実の 行使によって具体化されるまでは、一身専属的なものであり、したがって、これを行使するかどうかも、被害者の主観的な感情その他の精神的諸条件や 当該被害者が置かれている環境その他の社会的諸条件を無視して決せられるべきものではないという意味において、一身専属的なものと考えるべきであると思う。 すなわち、第一に、被害者が精神的損害を受けたと感じるかどうか、およびその程度、態様も、被害者の主観によって決まることであり、第二に、被害者が 精神的損害を受けたと感じた場合においても、それを理由として、慰謝料請求権を現実に行使するかどうかは、被害者の感情その他の内的な精神的諸条件 および被害者の置かれている環境その他の外的な社会的諸条件によって影響されることが少なくないのであるから、被害者の主観を尊重し、被害者自身の 全人格的な判断にまつべきものであって、これらの事情を全く無視し、被害者の意思に基づくことなく、慰謝料請求権が当然に具体的に生ずるものと解すべきではないと思う。 右の点についての私の考え方を要約すると、次のとおりである。すなわち、精神的損害を伴う事故等の発生と同時に、慰謝料請求権は、抽象的・潜在的な 形で発生する(したがって、慰謝料請求権の消滅時効は、この時から起算すべきである。)。この権利は、さきに述べたように、一身専属的な性質を有する。 そこで、被害者が自らこの慰謝料請求権を行使することによって、損害発生時に遡って、これが具体化され、金銭債権としての損害賠償請求権が 具体的・顕在的な形をとるに至る。このように、一身専属的な慰謝料請求権の行使によって、金銭債権が具体化された後にはじめて、それが、譲渡・相続の 対象となり、かつまた、債権者代位権行使の対象ともなり得るものと考えるのである。
ニ、右のような見地からいえば、慰謝料請求権を具体的に行使するためには、被害者が慰謝料を請求する意思を有するとともに、その意思を外部に 表示することを必要とすると解すべきである。すなわち、慰謝料を請求する意思を有するかどうかは、内心の問題として、これを的確に判断することはむずかしいので、 何らかの形でこれを外部に表示することを必要とすると解すべきである。かつて大審院が、この点について、幾多の判例を積み重ねてきたのも、 被害者保護のために、できるだけ広く慰謝料請求の意思があったことを推定しようとした苦心の現われといえよう。その結果、時には技巧にすぎ、 ひいては、かえって慰謝料請求権の叙上の本質を誤った嫌いがないではないが、被害者の意思の存在とその表示とを必要としたその基本的な考え方においては、 無視できないものをもっていると思う。私は、慰謝料請求権を行使するかどうかについても、被害者の主観を尊重する見地から、被害者がこれを行使する 意思を有し、しかも、これを外部に表示することを要し、かつ、それをもって足りるものと解したい。
三、右のように解するときは、生命侵害等の場合-即死その他これに準ずる場合等において、その意思表示の不可能又は著しく困難なとき等-に、 相続人の保護に欠けるというような批判があり得るであろう。しかし、民法711条は、被害者の近親のために、生命侵害に対する固有の慰謝料請求権を 認めているのであるから、同条の適用を受けるべき近親の範囲および被害法益の範囲等を拡張的に解釈することによって、その保護を全うすることができ、 また、民法709条、710条による慰謝料請求権も、その要件を具備している以上、その請求が可能なわけであって、被害者本人の主観を無視して 慰謝料請求権の譲渡性、相続性を肯認しなければならない実質的根拠に乏しい。
四、ところで、原判決の確定するところによれば、本件被害者はその死亡まで慰謝料請求の意思を表示しなかったというのであるから、上告人は、 右被害者の相続人であっても、叙上の理由によって、右被害者の慰謝料請求権を相続によって取得したものとは認めがたく、したがって、これと同趣旨に出た 原審の判断は、結局、正当であって、本件上告は棄却を免れないものと考える。(最高裁昭和42年11月1日)
結婚式を挙げて同居を開始してまもなく夫が事故死した場合に、婚姻届を出していなかった場合の妻に相続権を認めなかった例
原告が孝雄と結婚式を挙げて同居した直後であること、原告の年齢、境遇、事故の態様その他本件に顕われた一切の事情を考慮するときは、 原告の精神的苦痛に対する慰謝料の額は、300万円を相当とする。原告は、孝雄と法律上有効な婚姻すなわち民法739条所定の婚姻届出をすませた 配偶者でないことはその自認するところであるから、同法第890条にいう配偶者に当たらず、亡孝雄の相続人の地位にないものというべきである。 すなわち、原告は、孝雄の逸失利益及び慰謝料についての損害賠償請求権を法定相続した旨主張する。確かに、内縁関係は婚姻関係に準じて法律上の 保護を受ける場合も少なくなく、或者が事故死した場合においては、内縁配偶者は、被害者が事故に遭遇せず、なお生存を続けていれば民法760条に 基づく費用支弁その他享受し得たはずの財産上の利益も失うことが通例であろうし、場合によっては生計の資にもこと欠く事態となることも少なくないであろう。 そのため、損害賠償請求においては、被害者の死亡に伴い残される内縁の妻を保護しようとする考え方のあることも理解できないではない。 しかし、相続に関する法制度すなわち、誰が相続人となるか、相続分如何は、被相続人が死亡した場合における近親者の受けるべき財産上の利益、 生計上の必要や、被相続人の財産処分に対する意図等を一般的類型的にとらえ、それを法制化したものであり、ただ、それは被相続人の 遺言等により個別的に修正されることがあるにすぎないとしているのである。このような相続関係は、第三者、例えば債権者の利害に影響することが大きく、 個別的具体的理由により左右し得ないものである。残された内縁配偶者に不法行為法上保護を与えるか否かは、法の選択に委ねられているところ、 死亡者本人の損害賠償請求権の相続については、わが民法上、相続人ないし受遺者以外には保護を与えないものと法定しているのであって、内縁の夫が 生存している場合は、内縁の妻が婚姻関係に準じて法律上の保護を受けることがあり得るとしても、相続の場合にあっては、右の基本原則を 崩すことが許されていないのである(しかし、残された内縁配偶者に法定相続権はないとしても、相続人、内縁配偶者等の親族間において相続された 財産関係について、個別的具体的に、話合いをすることは何ら妨げられておらず、かえって望ましいことである。現行家庭裁判所における 調停もこれを予定しているといえる。)。したがって、孝雄の損害賠償請求権を相続したとする原告の請求は、その余の部分について判断するまでもなく 失当である。(東京地裁昭和49年5月30日)