判例

一定の金額に対する価値観は、その人の年収によって異なると思われますが、 被害者または被害者の遺族が高額所得者だった場合、慰謝料の金額に影響はあるのでしょうか。

高額所得者の慰謝料

【裁判例1】18歳男子が被害者となった死亡事故において、父親が会社経営をしており、その年収が約1億8千万円だったケースがあります。 原告である被害者の両親は、近い将来息子に事業を引き継いでもらう予定だったことなどを理由に、 父親の収入を根拠として、逸失利益等のほか、本人分、両親分の慰謝料をあわせて6億円請求しました。 判決の理由中では、父親の年収に対する事実認定や、慰謝料額算定の理由について細かくはふれられていませんが、 認定額は本人分の慰謝料が2000万円、遺族の慰謝料が、両親にそれぞれ200万円というものでした。(東京地裁平成14年9月5日判決)

父親の年収は平均的な金額の30倍ともいえるほど高額であることからすれば、金銭の価値観について平均的な人と同一に考えるのは 酷であると考えることもできます。 裁判での認定額は、通常の基準と比較しても平均的な金額ということができ、 単純に両親の金銭感覚からいえば、苦痛が慰謝されるには到底及ばない金額と考えることができるのではないでしょうか。

【裁判例2】年収が4千万円程度あった57歳の医師の死亡事故で、本人分慰謝料が1200万円、遺族の慰謝料として妻分が800万円 みとめられた。(東京地裁昭和61年8月29日判決)

二つの裁判例を見るかぎり、被害者側の金銭に対する価値観は、慰謝料の算定には大きな影響を及ぼさないということがいえそうです。

高額所得者と金銭に対する価値観について

金銭の価値は「客観的なもの」と「主観的なもの」に分けて考えることができると思います。 例えば日常の昼食は500円程度の支出で済ませている会社員と、ちょくちょく5000円の昼食を とっている会社役員は、金銭の価値観に違いがあるといえましょう。しかしそれは、単に収入の違いによる主観的な価値観の違いと捉えることができます。 別の例をあげれば、500円玉を子供に与えれば大喜びしますが、会社の社長に500円玉をあげても、ほとんど何も感じないのと同じことです。 客観的には同じ500円玉でも、主観的には全く違う価値観を抱くということがおわかりいただけると思います。

精神に受けるダメージは常に主観的なものですが、それを金銭賠償の原則に適合させるには、客観的な指標にあてはめる必要があります。 個人の職業や財産などによって培われる価値観は主観的なもので、これはどんなに収入に差があったとしても、変わることのないものです。 主観的な価値観を、そのまま慰謝料の金額に反映させることはできません。 上記の例で、子供が亡くなったときと、社長が亡くなった時に、金銭の価値観に基づいて慰謝料に差を設けることは適切とはいえないでしょう。

客観的な価値観とは

それでは客観的な価値とは何なのでしょうか。職業や財産などの個人的な事情を排して、多くの平均人が共通に認識しうる価値のことを、客観的な価値といえると思います。 日本国内においては、1万円札の客観的な価値というものは、誰でも同じということになります。 しかし日本とは経済事情の異なる海外では、1万円札の客観的な価値も違ってくる可能性があります。 日本に比べて生活水準の低い外国では、1万円札の価値は相対的に高いものと考えることができるでしょう。 そうして考えると、生活水準の低い国の外国人被害者の慰謝料を、その母国の経済に合わせた低い金額に算定することには合理性があるといえます。 日本円で同じ金額に計算しては、被害者に過分な利得を与えることとなってしまうからです。

主観的な価値観とはあやふやなもの

高額所得者を身内に持っているため、生活水準は高いが、自身の所得は普通である人。
宝くじなどで一夜にして高額の収入を得た人。
事故前まで商売が上手くいっており、毎年高額の収入を得ていたが、ここ数年急激に所得が落ち込んでいる人。
一口に高額所得者といっても、おかれている状況は様々です。これらの人たちが持っている主観的な価値観の違いを、全て認めて慰謝料を増額するというのは難しいと思いますが、 一方で、どのような場合にでも認めないということには、違和感を覚えます。

財産が莫大であり、生涯高い生活水準の中で生活する蓋然性が高いなどの場合は、金銭に対する価値観の違いが主観的なもののみであったとしても、 一つの斟酌事由として、それに配慮した慰謝料を、ある程度高額なレベルで認定することは可能なのではないでしょうか。そうでなければ不公平感は無くならないと思います。