運転者の注意義務
【自動車の死角にいた幼児に気づかずにひいてしまった場合に、過失を認めた例】
本件自動車の発進に際し被告人が自ら下車して車体の死角内を確認すべき注意義務の存否につき検討してみると、
原審で取り調べた各証拠に当審における事実取調の結果を参酌すれば、本件事故現場は勝山市街地の中心部の市道であり、
繁華街である本町通りより直線にて約200メートル東方の裏通りに位置し、人家の密集した市街地であること、本件現場道路は
幅員4.5メートルの非舗装路で略々南北に約40メートルに亘って直線に走り、その南北端は共に三叉路となっており、
その西側には道路に接し人家が三軒建ち並び、また、その東側には側溝があってその外側に人家が五軒建ち並び、富田太一郎宅は
南端より約17メートル進んだ西側の二軒目で北端より約22メートル進んだ西側であること、被告人は昭和36年4月26日
午前8時50分頃本件自動車を運転して本件道路南端より進入北進し、富田太一郎方前に2分ないし5分間くらい停車後発進していること、
本件現場付近にある西小学校に通学する児童は必ずしも本件現場道路を通るとは限らないが、中学生や高校生は多く本件道路を通学に
利用するので登校時並びに下校時には特に人通りが頻繁になること、本件道路両側の人家は、その大部分が右道路に面して
出入口を設けているため、付近居住の幼児等が昼間当該道路に出てくる可能性があり、特に自動車の通行又は停車している際は、
幼児の好奇心をそそるため、その可能性が大であること等の諸事実が認められるのであるから、かような状況にある街路上に
被告人が前記判示日時頃2分ないし5分間停車し、更に発進するに際しては、とくに前方の死角圏内に注意し、幼児等の
立ち入りその他の危険を警戒するため、車内よりの安全確認のみに頼ることなく、進んで自ら下車して右死角圏内を確認した上
発進すべき責務があるものといわなければならない。従って、被告人は右の如き注意義務を怠り、客観的に当然予見せらるべき危険を予見せず、
危害の予防に何ら考慮を払うことなく、自ら下車して結果回避のための手段を講じないで発進したものであることは
証拠上明らかであるから、被告人の所為は業務上の注意義務に違反したものといわなければならない。(名古屋高裁昭和37年5月8日)
【運転者の点検、整備に関する注意義務について】
自動車損害賠償保障法第三条但書の「構造上の欠陥または機能の障害」とは、保有者や運転者が日常の整備に相当の注意を払うことによって
発見されることが期待できたか否かにかかわりなく、現在の工学技術の水準上不可避のものでないかぎり、欠陥又は障害があるものと
いうべきである。(東京地裁昭和42年9月27日)
【ブレーキの故障により追突事故を起した運転手の過失を否定した裁判例】
原告らは、同人が甲車の制動装置の点検を怠り、かつ運行中制動装置に故障があることに気付いた場合には直ちに運行を中止すべき
であったのにそれを怠ったと主張するが、前認定のとおり本件ブレーキ故障がいついかなる原因によって発生したものか判明しないのである。
むしろ、本件事故現場まで甲車が無事運行されてきたことから見て、運行開始時における点検の不備はなかったと考えられ、訴外田中自信前記の
ようにその故障に気付いたのは前車の後方10メートルの地点であったと供述している点も考え合わせると、同人が故障に気付いたのが果たして
フットブレーキの使用によって追突を回避しうるほど乙車から離れた地点であったか否か、心証をえることができない。
そして、この点の不分明は、同人の過失につき証明責任のある原告の不利に解するほかはない。
また原告らは訴外田中の過失として、フットブレーキの故障に気付いた場合にはハンドブレーキの操作をなし事故発生を
未然に防止すべきであったと主張する。仮に訴外田中の供述どおりとすると、甲車は時速約20キロメートルの速度で走行していたのであるから、
訴外田中が乙車の後方約10メートルの地点でブレーキを踏み始めてから甲車が乙車に追突するまでに二秒弱の時間を経過したことになるが、
ブレーキを踏み始めてからブレーキ故障という異常事態をのみこむまでに通常人は少なくとも一秒間を要し、訴外田中もその例外ではなかったと思われる。
その一秒間に甲車は約5.5メートル走行し、乙車の後方約4.5メートルの地点に接近していたことになるが、残されたこの時間的
距離的制約内で運転者に多くのことを期待することはできない。以上は、訴外田中の供述する時速20キロメートル、距離10メートルを
採用した場合のことであり、本件の実際の数値がどうであったかは、必ずしも明らかでないのであるが、右角田証言の実測値は
2トン半の空車によるものであるのに、本件甲車は5トンの積荷を満載していたのであるから右結論は、
時速、距離等に些少の差異があっても変わらないと考えられ、一歩譲って確実な心証を得がたいと見ても、その不利は原告に
帰すべきものであること前判示と同様である。また最後の手段としてハンドル操作により乙車へ追突を避けえたのではないかとの
疑念も生まれるが、訴外田中は前認定のとおり一応はハンドルを左に切っているのであるし、また現場は道路左側端に面して商店の
店先があったのであるから、そのハンドルの切り方が不足していたと責めることもできない。
以上いずれの点からみても、訴外田中に本件事故発生についての過失があったとの証明はない。(東京地裁昭和43年6月13日)
【道路上に寝ていた被害者を礫過した場合に、自賠法三条の免責が認められた例】
夜間、加害者を車庫に入れようとして車庫前の空き地をバックしたところ、運転者としては後方を確認して後退したにも
かかわらず、車庫前の空き地に酩酊して寝ていた被害者に気付かずひいた加害者に、過失はないものとした。(静岡地裁昭和45年12月25日)
【サドル前に幼児を乗せた自転車とすれ違う場合の自動車運転者は、いつでも停車できるように減速し、自転車との間に充分距離をおいて
進行すべき注意義務がある。】
原告主張の日時場所において永井(四男)が貨物自動車にひき殺された事実のあることは当事者間に争いがない。(証拠略)によると、
原告らのニ男(当時15歳)は昭和27年7月30日午後7時30分頃、四男(当時9歳)を自転車のサドル前に同乗させて、都城市岳之下の竜泉寺坂を岳之下橋方面から
坂上に向かって左側を進行していたが、訴外中山が被告会社の貨物自動車を運転して同市鷹尾町方面から右の坂を下方に向け進行してきたので、
永井はさらに左方に避けようとして幅約一尺四寸の帯状にまいてある砂利に乗り入れたため、ハンドルが横ぶれして同乗していた永井は
自転車から落ちて右貨物自動車にひかれ、後頭骨粉砕、脳髄挫滅等により即死したことを認めることができる。そこで先ず、
右事故は中山の過失によるものであるかどうかについて考察する。前掲の証拠によると、現場は道路幅員10メートル30センチであるが、
下り坂であってカーブになっており、しかもニ男の進路の左側には幅約一尺四寸の帯状に砂利がまいてあって、中山は前方46メートルの
地点にニ男、四男が自転車に同乗して左側を上ってくるのを認めているから、このような場合自動車を運転する者は、子供らが
砂利に乗り入れて動揺のためいつ倒れないとも限らないのであるから、いつでも停車できるように速度をゆるめ、自転車との間に
充分余裕をおいて進行し、且つ子供等の行動を注意して事故を未然に防がねばならないのに、中山はこれらの注意を怠り時速20キロメートル
位で進行し、間隔も僅か一メートルくらいしかおいてなかったので、子供らが自動車を避けようとして砂利に乗り入れ、ハンドルを横振り
するのを認めて直ちに急停車したが間に合わず、自動車の後車輪で自転車もろとも倒れた四男の頭部を引いて同人を即死させたもので
あるから、本件事故は中山の過失によるものと認める。(宮崎地裁昭和31年6月13日)
【濃霧の中、道路に寝転んでいる者を礫過した運転者の過失】
事故の現場は、南北に走る幅員約2.6メートルの、勾配はないが一面に凸凹のある非舗装道路で、その付近一帯は、
唐松林の中に点々と別荘が散在する軽井沢町南ヶ丘の別荘地帯であって、昼夜とも交通量は極めて閑散であり、しかも事故の
当時は濃霧のためほとんど視界がきかず、自動車の前照灯によって5メートルくらい前方がやっと確認しうる状況であったこと、
しかして原告は事故の当時、勤務先の疎外有限会社泉製氷で酒を二合ほどご馳走になり、一旦帰宅後も更に焼酎を小さなコップに
一杯程度のみ、やがて軽井沢保育園基礎工事の打ち合わせのため友人白山宅を訪問しようとして、自宅より約500メートル
位離れた事故現場にさしかかったが、前日釘二本を踏みつけた足が痛むので、その場に座って休んでいるうち、酒の酔いがまわって来て、
うつらうつらと寝転んでいたこと、一方被告山口は、軽井沢の別荘に遊びに来ていた兄嫁の妹松野を南原の家に送るため
同女を被告者に同乗せしめて、時速約10キロメートルの速度で現場にさしかかったが、当時は霧が深く、しかも月明かりもなく、視界は5メートル位しかきかない
状況にあったのであるから、前方を十分注視して被告者を運転しなければならなかったのに、同被告は、これを怠り、道路上に寝転んでいた
原告を大きな石のごとく錯覚し、漫然その上を通過したところ、突然車体の下ににぶい音をきいて事故の発生を予感し、約30メートル前進した
地点で転回してきて、始めて原告がその場にうづくまって呻吟しているのを発見したことが認められ、他に反対の証拠はない。
右認定事実に徴すれば、本件事故が被告山口の前方不注視を怠った過失により惹起されたことは明らかである。(東京地裁昭和39年2月29日)